東松山の焼鳥をサクッと説明!
東松山の焼鳥は東松山市が市制施行した昭和29年前後に創業した※1店のシロモツ・レバーの焼鳥屋がルーツとなります。つまり、東松山市と共に歩んで来た事になります。当時は東上線の複線工事や大東文化大学の造成に加え街に誘致した企業の工場に働く人が増え街は活況を呈していました。面白いことに、町の企業の組合員の数と焼鳥屋の数が比例して増えていきました。そのピークは昭和60年台初頭で市内及び周辺には100軒以上の焼鳥屋が仕事帰りのサラリーマンや職人さんの憩いの場となっていました。
※既に廃業。市当局、組合関係者共にこの店に触れることは少ない。
○ 東松山の焼鳥を特徴付けるのは「かしら(肉)」「味噌だれ」「炭火焼き」おまけに「長ネギ」です○
《頭肉》
詳しくは時代背景を理解しないと判りません。在日コリア徴用工を用いた軍需工場が東松山の隣の吉見町に、炭鉱が埼玉県北西部の寄居町にあり終戦と共に在日コリアの人々は解放されました。この在日コリアの人々の中で生業として屋台での白モツレバーの焼鳥屋が創業します。当時は在日コリアへの差別は厳しく、また肉は貴重なものでした。よくてハムに使うか捨てられていた豚の首から上の肉を自らこそげ取り串に刺し焼鳥として酒のつまみに屋台で売り始めました。
《味噌だれ》
最初は塩や甘だれで提供していましたが、昭和33年、寄居町で屋台の焼鳥屋を営んでいた大松屋のご主人が「かしら肉に合う調味料を」と試行錯誤し故郷の味に近いコチュジャンをベースとした味噌だれが考案されました。
既に東松山市で営業していた若松屋のご主人の誘いもあり大松屋は昭和36年に東松山に移住してきました。この頃には市内に6軒の焼鳥屋があり以降開業する店も味噌だれを教えてあげたり真似て造ったりしました。
現在に至っても、それぞれの店がそれぞれの自家製の味噌だれを提供しています。
翌、昭和37年に7軒の焼鳥屋が肉の安定供給と衛生管理等を目的に東松山焼鳥組合が正式に埼玉県環境衛生同業組合の下部団体として正式結成しました。
昭和40年代に入ると街の隆盛と共に焼鳥屋の件数もさらに増え、新規開業を促進した要因に食肉センター内にあった東松山臓器食品という会社が挙げられます。此処では食肉センターで食肉処理された頭肉や内臓系の肉が丁寧な仕事で処理され地域の店に供給されました。これにより調理経験の浅い者でも楽に串打ちまでをこなせ、更には鮮度のよい商材(頭肉や臓器系)の確保を得ました。
《炭火焼き》
そして東松山の焼鳥の噂を聞きつけた都内の備長炭卸売店の社長が加熱調理においては備長炭の使用が頭肉を焼き上げる上に抜群の調理効果を上げるとアドバイスを頂いたことをきっかけに市内の焼鳥屋の多くが紀州備長炭を使用するようになりました。
《長ネギ》
東松山の焼鳥には肉の合間に長ネギを刺しています。炭火焼きのネギは香ばしく甘みも増し味噌だれとも相性がよく創業当時から各店共にこのスタイルを貫いています。東松山市や寄居町の近在には長ネギの産地深谷市があり仕入れにも都合がよかった。
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